諏訪神社

境内のご案内 PRECINCT

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神馬像

01神馬像

第一鳥居手前、左側にあるこの神馬は「義家献馬」の古事に基づいて、安政3(1857)年銅板葺の本殿、幣殿及び大正13(1924)年銅板葺の拝殿、いずれも当時の崇敬者の浄財による銅板を昭和50年にすべて葺替えた際の古銅を用いて鋳造しました。

隨神門

02隨神門

隨神門は神社の境内にあって特に神聖な部分の入り口の機能を持つものです。この隨神門を建てるに際し境内を清め、神域の雰囲気をより清浄にする機能を持たせることに重点を置きました。おのずから神域であることを意識して、身を引き締める効果を期待しての隨神が左右に正座し、建築も直線を重視した簡素なものを志しました。
隨神は古来、左大臣と右大臣が対をなし隨神門の左右に正面を向いて座しており外部からの破邪を防ぐ姿勢をとり、背後(社殿側)は壁でふさがれています。当社では、隨神が参道を前に向き合う形になっており、左右それぞれ三方を開け放し雨風を凌ぐためにガラスを入れ、隨神は、あたかも参詣者を迎え送るが如くに配置しました。この隨神門は当社独自のもので、他に類を見ない建築洋式であります。
当社御鎮座千二百年を記念して平成17年に建立。

神門

03神門

昭和39年12月に第52代古谷金祐宮司の奉納によって建立されました。当初は2本の共木の柱での建設を予定していましたが、宮司の案によりそれぞれの柱を半分に割き4本の柱としました。
平成29年12月に門扉の改修工事を、令和4年3月に屋根の葺替え工事を執り行いました。

義家献馬像

04義家献馬像

当社には、平安時代後期の武将、源義家(通称:八幡太郎)の伝承が残っています。
義家は、前九年の役での奮闘によって一躍武勇の名を天下に広め、後三年の役では陸奥守兼鎮守府将軍として奥州追討に赴きました。その途中、この地で人と馬を集め、当社に戦勝を祈願して任地へ向かいました。叛乱を平定し都への帰途、再び当社に詣でて乗馬や馬具を献じて報賽の誠を捧げたと伝えられています。この古事にちなんで北村西望先生によって制作されました。

狛犬

05狛犬

昭和58年、長崎の平和祈念像の製作者として広く世に知られる彫塑界の巨匠、北村西望先生によって制作されました。
大きく目立ち軒昂(けんこう)の気に溢れ、人間的な表情を持ち首をややかしげた上体と下部への構想、古来狛犬の名作は多いですが、儀軌(ぎき)にとらわれない自由な想像による、呼気と吸気が一体をなす霊獣と伝えられるこの狛犬は、まさに激動の昭和期が生んだ傑作であります。
先生は狛犬の竣工奉告祭の祝賀の席で、「私のつくった狛犬が、これから二千年三千年の後世まで、朝夕、参詣の皆さんを迎え送るかと思うと、作者として光栄である」とお話になりました。

社殿

06社殿

御社殿は江戸時代に再建されたものです。神社の創建は古いですが、寛延2(1749)年の火災により以前の御社殿は宝物などとともに焼失。現在の御社殿は新たに建てなおしたものです。焼失前の御社殿は水戸光圀公もお詣りになっていました。
御本殿・幣殿は文政9(1826)年に建設。棟札により棟梁は下総香取郡の中村西谷之住人・並木文藏(多古の文蔵といわれ国の重要文化財に指定されている建物を手がけた人です)、大工は下総葛鹿郡八木村之住人・染谷磯右衛門(八木の文蔵と呼ばれています)。当初は瓦葺きであったものを、銅板葺に改めています。安政3(1857)年7月「銅葺成就之砌奉謹之図」野々下大工林吉、江戸小伝馬町 諏訪新道、銅師弥五郎との記録が残っています。
拝殿は幣殿と接続されていて、弘化3(1846)年に完工。八木の文蔵の作で本殿よりやや後につくられたことがわかります。大正13(1924)年には瓦葺きの拝殿は、銅板葺に改められました。
本殿・幣殿・拝殿は、いずれも昭和55年に流山市の文化財第一号に指定されています。外拝殿、祝詞殿は、当社の枯損木及び台桧等を用い、屋根を銅板葺にて建設。昭和50年に竣工しました。

社務所

07社務所

御鎮座千百七十年を記念して、昭和53年に鉄筋コンクリート造、銅板葺の社務所を建設しました。
御鎮座千二百十年記念事業として境内整備工事を行った際に、旧神輿庫の屋根を社務所玄関前へと移設し車寄せとしました。
御鎮座千百九十年を記念して、大正13年建築の木造社務所を和風様式の鉄筋コンクリート造、銅板葺の御祈祷控室へ改築しました。

姫宮神社

08姫宮神社

御祭神は八坂刀売命(やさかとめのみこと)と申し上げ、諏訪大神の妃神であります。明治時代の中頃、柏市豊四季字姫宮の地から当社の境内にお遷しし、昭和51年に御社殿を改築いたしました。
当社も創建当時は境内地が広大であり、本社である信州諏訪大社の本宮と前宮、秋宮と春宮に見られる主神と妃神の関係の如く、本社から200mも離れた地(現在は境内外の字姫宮の地名が残る場所)に奉斎されたと思われます。
御祭神について諏訪大社での記録を見ると、『文徳実録』に仁寿元(851)年10月、従三位、後に正一位を授けられたと考えられます。諏訪大神のご活躍を輔けられ、数々の実績をお挙げになりました。また、婦徳、安産の神として特に信仰されています。
諏訪神社は昔から、子供の成長の神さま、安産の神さまとして地域の熱心な信仰を集め、特に子供の神さまとして名高いところです。それには姫神さまの御神徳が欠かせません。当社にお越しの際は、ぜひ姫宮神社にもお詣りください。
【例祭】1月20日

雷神社

09雷神社

御祭神は大山咋大神(おおやまくいのおおかみ)と玉依姫神(たまよりひめのかみ)の御子神で別雷大神(わけいかづちのおおかみ)と申し上げます。本社は、京都の上賀茂神社であります。当地鎮座の年代は詳らかではないですが、かつて大堀川のほとりに農耕用地の池からなる200坪余りの境内地を有しており、農業の守護神として永く奉祀されていましたが、明治の中頃に当社境内にお遷しされました。雷や雨、水を司る神さまで祈雨、止雨など農耕神としての信仰が篤いです。茄子、胡瓜などの初物を供える信仰を今に伝えています。
【例祭】5月1日

招魂社

10招魂社

大東亜戦争において、萬世太平の尊い礎となられた靖国の神霊を、顕彰鎮斎申し上げるため、戦後間もない昭和24年に創建されました。
御祭神は当社を中心とした当時の八木村、流山町、新川村、柏町、田中村、富勢村、土村、小金町等八町村出身の戊辰戦役いらい大東亜戦争にいたる、戦陣において国難に殉じた靖國の英霊、一千余柱命が鎮まっておられます。
御創建遷座祭は、同年11月22日、浄暗満天の星瞬きを止めるかの静謐の中に、御遺族をはじめ、曽ての戦友等千数百名参列のもと厳粛荘厳に斎行されました。
顕彰と安鎮の御祭典は、春が4月23日、秋が11月23日です。

大東亜戦争について

大東亜戦争を、アメリカは太平洋戦争、他の国々や多くの日本人は第二次世界大戦といいます。
日本には明治以来、「アジアは一つ、共存共栄すべきである」という考えがありました。ところが、この長い歴史の中でもとりわけ昭和初期において、内政及び対外展望の失政と倫理の欠如、大戦略の拙作などが要因となって戦争に敗れました。
しかし、この戦争を契機として今アジアの多くの国々、否、世界的規模で民族自決独立をしました。この意義からも、大東亜戦争は歴史なのだから呼称を改める理由はありません。また、日本は昭和16年12月8日の開戦直後である12日に「今次の対米英戦争は、支那事変を含めて大東亜戦争と呼称す」と発表してから、正式に名称を改めたことはありません。
かつて、アメリカはモンロー主義を捨てて太平洋に進出、ハワイを併せグアムを従えフィリピンを支配、やがて中国の門戸開放さらに世界の指導的優位という戦略を持ち続けました。
一方、ロシアはその位置する地勢上欧州に野望を延ばし、アジアへも南下という宿命的政策を繰り返しました。ソビエト共産主義国になってからは、コミンテルンの党是によって世界制覇を目論み、巧妙な方策は国民政府をこれに乗じさせ、アメリカも結果的にはともにことを謀りました。
日本はこうした世界の二大潮流のはざまにあり、前述の如き歴史を辿りました。

大鳥神社

11大鳥神社

御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)と妃神の弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)。
日本武尊の御東征に際して、相模から総の国へ渡ろうとされたときのことです。東京湾の走水から房総に向け船を出されたのですが、海が荒れ船は進めぬ事態になりました。そのとき弟橘姫命は波の上に八重に錦を敷かれ「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」との歌を残し、その上に身を投じられました。すると波は凪ぎ船は水の上を走るように進み、尊は無事に総に上陸し大業を成し遂げられました。しかし、その帰路に病に倒れ生涯を終えられます。亡骸は白鳥と化し、天高く飛び去ったと伝えられています。その御霊は大鳥神社に祀られています。
これは日本神話・日本武尊の中のクライマックスにあたり、勇ましさの中にも悲しみを含んだ一連の伝承です。当社には、日本武尊の御神徳と弟橘姫命の婦徳を讃えて二柱の神さまがお祀りされています。
【例祭】11月初酉の日

恵比寿神社

12恵比寿神社

御祭神は水蛭子神(ひるこのかみ)。
『古事記』の国生みの段に、「伊邪那岐神、伊邪那美神二柱の神が、天之御柱を左右より互いに相廻りますときに、かけられた言葉の前後がふさわず、子(みこ)水蛭子(ひるこ)を生み給いき、この御子は葦舟に入れて流し給いき。」とあります。さらに、古典では「舟は難波に着かれしを、恵比寿の神と祀り、福寿の神と称えた。」ともあります。
この古事に従って、天つ日の恵みを戴けなかった水蛭子の慰霊安鎮のために、昭和60年4月に創建されました。
【例祭】4月23日

国魂神社

13国魂神社

明治10年1月11日、同18年10月10日に、豊四季字道灌堀の地で板碑数基が出土。碑には応永2(1395)年や寛正6(1465)年等の文字が見られ、明治20年7月8日に時の地主が、豊四季字鞍掛の地に祀宇を建立。近隣の人々は「道灌さま」と称えて、大正年代の頃まで毎月10日に慰霊の集いを行いました。
昭和27年5月、当社境内地に祀宇を遷し、昭和60年6月に御社殿を改築、これを機にこの地方開発いらいの当地方の遠祖を併せ祀りました。
【例祭】10月10日

稲荷神社

14稲荷神社

御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)〔豊受大神(とようけのおおかみ)、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、宇迦之売神(うかのめのかみ)、保食神(うけもちのかみ)とも申し上げます〕。宇迦はウケの意で一切の食物を司り、殊に農業の基本である稲の生産を御守護なさいます。特に京都で「稲、生まれる=いなり」との信仰から発生した稲荷信仰の稲神さまですので、農耕神としての深い信仰があります。時代が下って商工業が盛んになると、商売繁昌の神さまとしても崇敬されるようになりました。
当神社の創建は詳らかではありませんが、古来石祠が見られ、氏子は古くから初午祭を行っていました。
【例祭】2月初午の日

天神社

15天神社

御祭神は菅原道真公。
平安時代の公卿にして、学者であるとともに文人でありました。天満天神と称えられ、学問の神さまとして広く崇敬を集め、学業成就の信仰が篤いです。
道真公は宇多天皇の御信任篤く、学者としては異例の右大臣にまでなられました。藤原氏の専横を抑え、遣唐使の制度を改め、政治の確立に努められました。しかし、藤原時平らに妬まれて、いわれなき罪で太宰権帥(だざいごんのそち)に貶(お)とされ左遷されてしまいます。道真公は大宰府の地で身の潔白を訴えながら、延喜3(903)年2月25日に薨ぜられました。
天神社は、寛正3(1462)年に鎮祭され、昭和60年に駒木字中留上の地から当社境内地にお遷しされました。
【例祭】3月25日

第一鳥居

16第一鳥居

昭和56年に第一鳥居を新たに建立しました。これに伴い大正3(1914)年、米村定八氏が奉納された鳥居(元の第一鳥居)を移設して第二鳥居としました。

第二鳥居

17第二鳥居

「大正三年五月二十三日」「東京市淺草區馬道町 米村定八謹建」などと刻まれており、大正3(1914)年、米村定八氏の奉納です。当初は神明鳥居でしたが、昭和56年新たに第一鳥居を建立するのに伴い、八幡型に改修し第二鳥居として移築しました。

第三鳥居

18第三鳥居

「文政十一戊子年七月吉日」「江戸最初講中」などと刻まれており、文政11(1828)年に建立された八幡鳥居です。昭和56年第一鳥居の建立に伴い現在の場所に移設し第三鳥居としました。

手水舎

19手水舎

水盤には「新吉原」「文政十二巳丑年正月吉日」「鑄物師 江戸 粉川市正藤原國信」等と刻まれており、文政12(1829)年、新吉原の人々によって奉納されました。
江戸時代、当社は主要部分を残して小金牧という幕府管理の牧場となり、馬が牧場から逃げないように野馬堀や柵が張り巡らされました。しかし、馬は時折この柵を越えて神社の境内に入り込み手洗の水を飲みに来ました。その際に馬が蹄をかけてできたひずみが今もこの水盤に残されています。

御神水

20御神水

当社には古くから御神水の篤い信仰があり、江戸時代には霊水として巷間では様々な効能が伝えられ万病に効く「御神水」といわれ重宝されてきました。この水は現在でも尽きることなく湧き出しており、御神水を求めて遠方より多くの人々が訪れています。
御神水は拝殿に向かって左側にございます。御神水専用のボトルをご用意しております。
【御神水ボトル】初穂料500円

自動車清祓所

21自動車清祓所

交通安全をお受けの方はこちらで清祓を執り行います。
お車などはバック駐車にておとめいただきます。

七五三像

22七五三像

当社には、古くから七五三詣でたくさんのお子さんがお詣りになります。
この七五三詣という麗しい日本の国風を銅像という形で表すとともに、お子さんの健やかな成長を祈念して平成20年に制作しました。雨宮敬子先生作。

なごみ像

23なごみ像

「なごみ」という題名そのものがこの像を表しており、神域に穏やかな雰囲気を醸し出してくれています。
女性や子供の制作では現代日本のトップとの定評がある雨宮敬子先生の作で、御鎮座千二百年記念事業として平成16年に建てられました。

壽石

24壽石

北村西望先生が101歳のときに奉献された書幅に「仁者寿」があります。その雄渾な「寿」の字を、重さ20トンの大きな筑波石の自然石に写し刻んで、参拝に見える崇敬者の幸福と長寿を祈念し、平成13年に建てられました。

山上憶良歌碑

25山上憶良歌碑

【銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも】
この歌は奈良時代末期に成立したとされる日本最古の和歌集『万葉集』に収録された山上憶良(やまのうえのおくら)の歌です。「銀も金も宝石も何になろうか、すぐれた宝といっても子供に及ぶでしょうか、けっして及びません」という内容であり、子を思う親の心を表した名歌です。長崎の平和祈念像の作者北村西望先生が、当社のために101歳のときに書いてくださったもので、子育ての神さまとして名高いおすわさまに相応しい歌であるためこの歌碑を建てました。

千二百年記念碑

26千二百年記念碑

平成18年に御鎮座千二百年を迎え、同年4月23日に奉祝の式年大祭を執り行いました。
その記念としてこの石碑を建てました。

感謝と祈り像

27感謝と祈り像

古来より日本では人生の節目や転換期に神さまに感謝と祈りを捧げ、日々を過ごしてまいりました。
この像は、平成24年に感謝と祈りを捧げる姿を象り制作しました。雨宮敬子先生作。

神輿庫

28神輿庫

御鎮座千二百十年記念事業の境内整備工事に伴い、それぞれ別の場所に建っていた神輿庫、山車庫、民具庫を一帯の建物として平成29年に建設しました。

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