神社紹介
日本の國は、全国津々浦々、町々、農・山・漁村余す処なく、神社が建てられている。
これは日本人が、遠く民族の発生以来集落が出来ると、必ず共同の心のよりどころとして、神を祀ることを今に至るまで相承け相伝えてきた、謂わば命脈とも言うべきものである。
あの終戦後は占領政策によって、公共機関は神社に携わってはならないということであったが、「いくそたび かきにごしても 澄みかへる 水はみ國の 姿なるらむ」という歌の如く、自ずと本来の姿にかえりつつある。
日本民族の遠い祖先、それは縄文時代に遡るが、静岡県芝川町の一万一千年という古い住居跡に見えるが如く、5・6戸の竪穴住居であるが、日当たりの良い処に、溶岩で囲んだ祭祀跡の出土や、全国的に実に数多く、あの青森市の南西部の三内丸山遺跡の如く、広大な集合集落群には、集合的祭祀跡が出土したり、古代人の住居跡には必ずといってもよい程に祭祀跡を見ることが出来る。
では何を祭ったか、当時は文字がないのでそれを知るには、天武天皇の舎人(とねり)の稗田阿礼が記憶力が秀れて居り、それを太安万侶が筆記したことでも知られるが如く、古事記や就中万葉集中に受け継ぎ語り伝えたことを記した歌でも知ることが出来る。
そのいくつかを拾うと、
1378「木綿かけて いはふこの森も 超えぬべく 思ほゆるかも 恋のしげきに」
この森はきよめ祭る、この神の森もである。
1751「(長歌前段略)君が見む その日までには 山おろしの 風な吹きそと うち越えて 名に負へる森に 風祭せな」
この森は、龍田の杜であり、龍田の神である。
202「泣沢の 杜にみわすゑ 祈れども 我が大君は 高日知らしぬ」
これは泣沢の神を杜と記している。
このように、古代人は杜・森は神なのです。古代人は、森と共存して生活をした。森には生活に欠かせない、食物となる果実・草・根が、清らかな小川には貝や魚が、そして食用となる兎・鹿・猪などの獣がすんでいる。
もりは即ち、神であった。
人は自ずから食物の豊かさを祈り、且つは感謝をした。この生活は人々を祭祀民族として、そしてやがて根源に据えて今日に至った。そして、やがて人格神へと進化した。
その故に境内林は神のよりしろとして、育々成々発展と創造・再生・復活・永遠・理性を感得の聖地である。
諏訪神社では、境内林の一木一草も、更に狛犬も灯籠も建物に至るまで、神を知るよすがとしてあるべき本来の真姿奉護をとご奉仕に心している