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御創建
 諏訪神社の御創建は平安時代のはじめ、大和国から高市皇子の後裔となる部族たちが、新天地を求めてこの下総の大堀川のほとり、森も水も豊かな地で肥沃なこの地に移住し、田畑を墾き、農業を営んで集落を形成したときにさかのぼります。
 西の都から移住してきた人々は、新しい土地の心のよりどころとして、その東漸の途次、信濃国諏訪大社より御神額をいただいてきました。これがここ諏訪神社の創めで、記録によると平城天皇の大同2年(807)のことでした。
いらい諏訪神社は住民の信仰の中心となり、深い親交に支えられて歩んできましたが、平成18年には御鎮座からちょうど1200年を迎えました。
 ではなぜここに高市皇子の末裔たちは住み付く事になったのでしょうか。それにはすでに景行天皇(71~131)の御代に、束国には御諸別命が武将として派遣され、その末裔がこの地方に永住されていたので、それいらい、この地と大和地方とは交流が続き、下総地方のことが都にも良く知られていたことにもよるのでしょう。
 後の天武天皇になられた大海人皇子の第一皇子にあたる高市皇子は、幼少の頃、大和の豪族・高市麻呂に養育され大きくなりました。高市麻呂は奈良の大神神社の祭祀者であり、大神神社が大国主命を祭る大切な神社であることから、そのお子様大国主命を祀る信州・諏訪大社とも深い縁があったと考えられます。高市皇子はまた、九州宗像族の総領宗像徳の娘を母として、出雲の一族とは深い関係にあります。その重なる縁が高市皇子の末裔たちが東国へ新天地を求めて移っていくに際して、大国主神を祀る大神神社から、お子様の健御名方其命を祀る諏訪大社が紹介され、一行は陸路 諏訪大社に詣って開拓の加護を祈り、神額を拝戴してここに神社を設けたことにつながったと思われます。 
 ではなぜ、都を後に高市皇子の後裔たちは下総に移住したのか。
それは壬申の乱の後、朝廷を取り巻く勢力の暗闘が絶えなかったことがあげられます。高市皇子はそれでも太政大臣の任を完うし、薨去の際にはあの万葉集に残る有名な長歌を残されたのですが、その第一皇子長屋王の時代になると、長屋王は英俊で、聖武天皇の御代には、左大臣にまでなり徳望篤い人でしたが、藤原氏の権力固めのために、長屋王には「謀反」の心があるとの讒言によって逮捕され、妻子ともども自尽させられる悲運にあいました。そのほかにも同じような事由から、一族には不幸なことが相次ぎました。そんな事で一族は、大和の地よりは争いのない新しい天地を求めて、そこで生活しようと揃って東に移住したものと考えられます。また、既に景行天皇(71~131)の御代に、東国には御諸別命が武将として派遣され、その後裔がこの地方に永住されており、それ以来この地と大和地方とは交流が続き、下総地方のことが都にも良く知られていたことにもよるのでしょう。 

 ではなぜ諏訪大神が、それは天武天皇(大海人皇子)の第一皇子にあたる高市皇子は、幼少の頃、大和の豪族・高市麻呂に養育され大きくなりました。高市麻呂は奈良の大神神社の祭祀者であり、大神神社が大国主命を祀る大切な神社であることから、そのお子様健御名方富神を祀る信州・諏訪大社とも深い縁があったと考えられます。高市皇子はまた、九州宗像族の総領宗像徳善の娘を母として、出雲の一族とは深い関係にあります。その重なる縁が高市皇子の後裔たちが東国へ新天地を求めて移っていくに際して、大国主神を祀る大神神社から、お子様の健御名方富命を祀る諏訪大社が紹介され、一行は陸路諏訪大社に詣って開拓の加護を祈り、神額を拝載してここに神社を設けたことにつながったと思われます。 以来諏訪神社は住民の信仰の中心となり、深い信仰に支えられて歩んできましたが、平成18年には御鎮座からちょうど千二百年を迎えました。
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